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日記 2014年

 

3月24日

3月11日の大震災から3年が過ぎた。

3年後のその日、チャリティーコンサートに参加した。

東響大久保練習場でのコンサート。

 

結果はほぼ満席で、いまでも震災に対する興味はマスコミが言うほど落ちてはいないことがわかりホッとした。

マスコミの批判をするわけではない。

 

 

 

 

3月1日

さらにくどいようだが、次の日記も特定の事件と何ら関係のないことを書いておく。

 

ある人に、ツイッターで

「演奏を聴くうえで、演奏家の人柄を見たいと思いフォローしました」

というツイートを僕宛に頂いた。

 

勝手に見てくれ、というのが素直な僕の気持ちだし、

それは、音楽の本当の楽しみ方ではないと強く憤る。

まあ、聴く方はどんな聴き方をしても良いが、損をする聴き方だと思う。

先入観を持ちすぎて聴くのは、もったいない。

ポリフェノールが体にいいからと赤ワインを飲むのはつまらない。

 

「海ジョニー」の話もここでかいたので、重複は避けるが、

人間性と演奏は、果たしてどこまでつながっているのか、は謎だ。

 

たしかに、音楽は心を取り出して見てもらう芸術と思う。

だが、それは、芝居と一緒の部分もある。

悪魔が登場する部分は、悪人にしか演奏できないのか?

そんなわけはなかろう。

ジャンニ・スキッキは、頭が良くてズルくて娘にめっぽう弱い人しか歌ってはいけないのか?

ザラストロはすべてを悟った大哲学者しか歌ってはいけないのか?

そんな馬鹿な話があるか!

音楽は芝居の部分もあるのだから。

まあ、もちろん、モーガン・フリードマンやいかりや長介のような性格俳優的素養を生かすこともある。

誠実な人柄の方が誠実な音楽をやることは確かに素晴らしい。

 

ベートーヴェンはなぜすばらしいのか。

それは、本当に素晴らしい曲を書くからだ。

ベートーヴェンが耳が聞こえない、と思って僕らは演奏してはいない。

いやあ、耳が聞こえないのに大したもんだ、なんて思わない。

彼が史上最高峰の作曲家の一人だと尊敬しているだけだ。

興味があるのは、楽譜がどこまで信用できるのか、とか

本当にベートーヴェンが望んだ音はなんだったのか、とか。

 

彼は、相当に写譜屋を頼っていたとのことだ。

ベートーヴェンのかなりざっくりしたスケッチから見事に曲を再現する

凄腕の写譜屋がいたらしい。

第九の時にその職人が亡くなり、彼は一度やる気を無くしている。

そして、その跡を継いだ職人に対し、ベートーヴェンが良い発言をしていない。

果たして、現在の第九は彼の望んだ形なのか、僕は知りたい。

まあ、多分それに近いだろうが、結構怪しいところも多いと僕は思っている。

 

チャイコフスキーの白鳥湖を吹いた。

吹きながら、素晴らしい作品だと思ったが、

いくつか、「本当にこれ、チャイコフスキーの作品なのか?」と疑問に感じた。

チャイコフスキーとは思えない和音の使い方で、なんとなく違和感がある。

でも、(グノーの様な)当時好まれた作風であろうし、まあ、いいか、と思ってしまう。

つまり、作品全体としてその曲は白鳥の湖に必要なのだと思う。もし弟子が書いたにしても。

 

いまだに、モーツァルトの作品であっても、実はモーツァルトじゃないという例がでてくる。

怪しいとされているオーボエ協奏曲と同じ曲想のフルート協奏曲。

オーボエからの転用でフルート協奏曲を書いた、という手紙から、これはモーツァルトの協奏曲に違いない、とされてきた。

演奏すると、確かに怪しい。モーツァルトっぽくない。

だれが実際この曲を書いたのか、は興味が尽きない。

ただし、もし、モーツァルトじゃない人がこの曲を書いたとわかったとしても、

この作品の評価が下がることは無いだろう。

あの華麗なソロの冒頭は本当にすばらしいし、優れた奏者であればあるほど輝かしく曲に命を吹き込んでくれる。

 

こう書いてきて、思ったのは、マスコミのせいだけでなく、我々演奏家も

「音楽の素晴らしさ、楽しみ方を聴衆にアピールしきれてない」のではないか、ということ。

浅い楽しみ方、入門編ではなく、頭や心に受け止めて楽しむ方法をわかってもらう良い方法を

我々はもっと考えるべきだ。

 

2月12日

くどいようだが、次の日記も、特定の事件とは何ら関係のないことを書いておく。

 

マーラーの交響曲について。

今更言うまでもないが、ハンス・ロットの交響曲が世に出ても、

マーラーの地位は失墜することなく今日まで来ている。

 

明らかに、マーラーは学友であるハンス・ロットの存在を隠蔽し

彼の死後に、

良い言い方では、ハンス・ロットの交響曲にインスピレーションを受け

悪い言い方では、ハンス・ロットの交響曲をパクり

1番、2番の交響曲を書いた(はずだ)。

 

ハンス・ロットは、マーラーの学友であり、天才的な才能で知られたが、

作曲コンクールでは賞を獲れず、発狂して若くして死んだ。

 

さて、そのマーラーの交響曲第1、2番

僕の感想だが、この2つの交響曲は、正直、芸術的価値としては疑問に思う。

作曲法としても、大きい意味で新たな境地を切り開いたところは思い当たらない。

むしろ、ワーグナーの楽劇を陳腐かつ冗長にしたような音楽を羅列し

素人好みの大音量でまさにこけおどし多用。

先輩のブルックナーや同年代のシベリウスのような新しい語法には挑まなかった。

まさに、指揮者が「片手間」で書いた作品と断じられても仕方がないし、

作曲当時は当然評判は良くなかった。

 

だが、これぞ、まさしく現代人の心をとらえた。

 

「構成力」は明らかにハンス・ロットを上回る。

ハンス・ロットの「詰め込み過ぎた交響曲」から素材を取り出して

「それなりに聴きごたえのする2曲」を生み出したと言える。

 

マーラーは当時、世界最高の指揮者であり、

つまり、当時最新の音楽情報を集められる立場にあった。

楽譜も欲しいと言えば、部下が何でも代行してくれた。

 

マーラーの初期の作品は当時の情報を結集し作られた、いわばパクリの集大成。

それでも、当時は、マーラーの作品は、認められるどころか批判の対象だった。

 

さておき、その後のマーラーの作品(交響曲において)の感想だが、

3番は(パクリ的な意味で)悩んだ形跡が見られるが、

4番はもはや、マーラーの語法が確立されている。

5番は(ある意味で)洗練され、一つの完成形を見た。

だが、この時代の他の作曲家からみても特別優れて新しいことをしているわけではない。

たとえば、5番の古楽的フォルクロールもショパンが既に先取りして、

しかもBachの平均律を意識する形で徹底的に体系化している。

 

では、マーラーの作品は我々のコンサートから消えて良いのだろうか?

僕はそうも思わない。

9番は素晴らしい作品だ。マーラーの9番が聴けない、吹けない今日はあり得ない。

 

1番のような青春の過ちを集めてぶちまけたような作品は、演奏されて良いはずだ。

マーラーの1番2番は聴衆に、なにか得体のしれない感動をもたらしてくれる。

 

あなたは、自分の家にあるアルバム写真を全て捨てることができるか?

同じように、無調音楽や騒音など、現代音楽を知った我々も

調性を捨てることはできないし、新しいものだけを追い求めてることはできない。

 

僕は、(たとえばマーラーのような)現代に生まれたそういう壮大な調性音楽であっても

かえって人の心を打つことがあるのだと思う。

 

2月11日

この日記は、特定の事件とは何ら関係のないことを書いておく。

 

今日、「ドボルザークの新世界」と「ベートーヴェンの第九」を演奏をした。

「新世界より」という副題、「合唱」が入り「言葉のある交響曲」。

その中で強く思ったことがある。

 

「音楽と言葉の問題はいまだに解決していない」

そして、近年ますます音楽が言葉の奴隷に貶められている、ということを。

 

本来、西洋音楽とは数学的、物理学な学問である。

であれば、純粋的に音楽のみを見て、感情など、人間の言葉に置き換わるような感情は排すべきなのか?

 

でも、物理の数式にすら、感情が入り混じるものがある。

 

E = mc2(2は二乗) がその代表だ。

 

物理法則の1つを表すのに過ぎないのにこれに対する我々は「感情」無くして相対することはできないだろう。

具体的な数式でこのありさまでは、音楽が感情的に論ぜられるのは当たり前だ。

 

でも、それが当たり前の状況では、結果として作品や作曲家を貶めることになりがちだ。

 

メンデルスゾーンの代表作「無言歌集」。ピアノのための作品集。

「無言」つまり、「言葉が無い」と作曲者本人が言っているのに、聴衆は

この曲はベニスのゴンドラを表しているように聞こえる、などと言って競うように題名をつけたがった。

もちろん、これに対してメンデルスゾーンは苦言を呈している。

言葉にできないことがあるからこそ言葉の無いピアノ=器楽で表現しているのに、なぜ、言葉を付けて単純化してしまうのか?と。

 

僕は、器楽奏者として、言葉の無い音楽をとても大切に考えているし、聴衆にもそれを感じてもらえたら、と思っている。

ブラームスは3度、5度といった音程感、和声感をとても大切に構成をする人だ。

とても美しい家。でも、耐震構造完璧な設計の家。伝統に則っているようで、実は斬新。

これがブラームスの良さだ。

演奏家は美しさも賛美=強調するけど、なぜ耐震構造が完璧なのか、演奏によって説明する義務がある。それがアナリーゼ(楽曲分析)と演奏技術の力。

残念ながら、耐震構造の良さ、つまり、設計図の見事さはなかなか評価されない。

「本歌取り」も評価されにくい。

 

 

先日、ある曲を聴いた。吹奏楽のための曲。

 

その作曲のスタイルは、戦後に流行ったような古いスタイル。

もはや「新しさ」は無いどころか、「パクリ」と思われても仕方がない部分がある。

 

だが、それでも僕は評価したい。使い方が非常にうまいのだ。

その映像はアマチュアの演奏であったし、多分正規の編成で吹いてはいないだろう。

人数が極端に多いパートもあったので、本来のバランスではない可能性がある。

 

それでも僕はその緻密さに、他の作曲家に無い非凡さを感じ興味を抱いた。

この曲を吹いてみたい、と思った。

言葉に置き換えられない良さがあると感じたからだ。

モチーフの扱い方や再現の仕方は本当に僕は好きだ。

ここまで来ると、もはやパクリではなく、本歌取りの領域であろう。

明らかにこの作曲家のオリジナリティと言える。

 

ところで、矢代秋雄さんの交響曲は、日本で最高の交響曲のひとつと僕は思っている。

では、彼のような素晴らしい曲を吹奏楽用に書いてくれ、と頼んで書けるか。

できる人がいるのなら、その技術を讃えてはいけないのか?

新しい技術や表現方法の追求にこだわるような作曲コンクールに出品したら、それは評価されないだろうけど、演奏会に乗せる曲としては十分意味のある存在となるだろう。

武満徹さんのドラマ音楽がオーケストラの定期演奏会のプログラムとなる時代なのだ。

 

言葉と音楽の関係に真に向き合えば、見えるものがある。

そして、日本のオーケストラは、現代を生きる作曲家と向き合うべきだ。

良い作品を発掘し、どんどん演奏すべきだ。

矢代さんや黛さんや池辺さんのような偉大な交響曲作曲家を生み出した日本は、

亜流で無い日本の音楽がある。

 

それをしないことこそが、オーケストラや演奏家の責任放棄だと考える。

10年以上前に山形の作曲家に僕は曲を作曲を依頼した。

その時、僕は、「ヒンデミットやバルトークのような色彩」という注文を付けた。

見事に応えてくれた。

それは、二人でホルンの可能性に挑む、というオリジナリティがあったと思う。

6月24日に再演できるのが本当に楽しみだ。

 

冒頭にも書いたが、この日記は、特定の事件と何ら関係が無い、と念を入れて書いておく。

 

1月8日

あけましておめでとうございます。

 

大変な年越し、年明けだった。

子どもが生まれると人生が変わると良く聞くけれど、本当に変わってしまった。

本当に良いものだと思う。

責任感はとても重くのしかかるけれど、それも喜びの1つだろう。

 

先ほど、役所に出生届を出してきた。

これで一丁前に一人の人間として認められた。

乳児だけれど、国税調査では立派に国民の1人としてカウントされる。

 

ところで、新幹線移動が続いて、都内、そして妻の実家の愛知県行ったり来たり。

車窓から富士山が良く見えた。

僕は地元の(山形と秋田の県境にある)鳥海山も良いなあと思っている。

でも、静岡や山梨の人にとっては富士山が地元の山なのだ。

その誇りたるや、想像もできない。

 

で、僕にとって山形の新しい誇りがプロウィンド。

愛知県に妻と子どもを断腸の思いで置いて、新幹線に乗り込み、

富士山を見て、熱海の海岸、東京駅の雑踏、関東平野に沈む夕日、そして雪、また雪。

僕の実家新庄までは7時間かかった。

 

そして、それだけ時間をかけて移動したかいはやはりあった。

 

 

 

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